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岸辺露伴は動かない (TVドラマ)





2020年10月14日、荒木ファンに衝撃走るッ!!突如として、「岸辺露伴は動かない」TVドラマ化のニュースが飛び込んで来たのです。年の瀬真っ只中の12月28日(月)~30日(水)の3夜連続、NHK総合テレビで放送が決定しました。ちなみに、22:00~22:49という、イイ感じの夜の時間帯。
「ジョジョ」4部の実写映画化も記憶に新しく、個人的な感想はさておき、世間的な評価や興行収入的には「成功」とは言い難い結果に終わったワケでして……、そんな厳しい目に晒されるであろう中で、実に骨太でタフネスでチャレンジャーな企画と言えるでしょう。しかし、逆に言えば、それほど自信満々な出来って事。確かに、バトル展開が多い「ジョジョ」本編に比べ、短編の本作は「謎」「サスペンス」「ホラー」がメイン。ドラマ向きな気がします。

大注目のドラマ化されるエピソードは、「富豪村」「くしゃがら」「D・N・A」の3編!荒木先生の原作だけでなく、なんと小説まで使ってしまおうとは意外でした。しかし、まったく毛色の違う3編を合わせて観る事により、露伴という人物の魅力を多角的に捉える事が出来そうで、ナイスなチョイスなんじゃないでしょうか。
気になる配役はと言うと……、主役の岸辺露伴を演じるのは高橋一生さん!女性編集者の泉京香ちゃんは、飯豊まりえさん!他も錚々たる俳優陣です。キー・ビジュアルやプレマップの映像などを見た限り、なかなかにピタリハマッてるように感じられました。特に高橋さんは、昔からの「ジョジョ」愛読者らしく、露伴への愛情や理解も並々ならぬものがあり、同じファンとしても安心と信頼を抱かずにはいられません。さらに、脚本はアニメ版「ジョジョ」も手掛けた小林靖子さん。これはもう……、期待しか無いな。
ここでは、そんなドラマの感想を書き記していきます。








第一話  富豪村



ドラマの開幕を告げるのは、荒木先生も自画自賛する会心作「富豪村」。うん、面白かった!やっぱり露伴、ドラマでもいいキャラしてんなぁ~(笑)。ストーリーがどうこう以前に、まず露伴の言動を見てるだけで面白いんだわ。実に変人偏屈でひねくれてて、女子供にも容赦なく平等で、どこまでも自分を貫いてて、「漫画」というものに対してだけは誰よりも真剣で誠実で。そういう「狂気」の域に片足突っ込んだような、なんとも危なっかしい雰囲気が滲み出てて最高でした。高橋さんのインタビューを読んだりしても思ったけど、この人に演じてもらえて良かった。
まず、今回はまさしく露伴の自己紹介的なエピソード。岸辺露伴とは何者なのか?どんな人物なのか?それがじっくりと丁寧に描かれていましたね。家に忍び込んだ泥棒達との冒頭シーンは、露伴の性格や職業、信念、能力などが一発で理解できる、無駄のない構成。執筆前の準備体操もバッチリ再現されててビビリました。アレ、よく出来るな~。さらに、新人担当編集者の京香ちゃんが、原作同様にウザ可愛い。露伴とは正反対のキャラなので、彼のキャラクターを大いに引き立たせてくれます。物語のパートナーとしても最適というか、ホームズとワトソン、ビーティーと公一くんのような名コンビになり得る可能性をも感じましたよ。


そして、富豪村でのマナー試験!実写になると、漫画やアニメとはまた違った、リアルな緊張感がありました。興味深いのは、原作の展開からあえて外してみせたところ。京香ちゃんが畳の縁を踏まず、上座に座る事もなかったのです。むしろ露伴に「基礎中の基礎」とまで言われる始末。原作を読んでいるからこその予想外の驚き。まぁ、結局、カップの取っ手に指を突っ込んじゃってマナー違反でしたが……、ここからどんどん盛り上がっていきます。京香ちゃんが再トライを申し込むあたりは、カメラを手持ちにしていたのか、すごい画面がブレブレで、事態がヤバい方向に進んでる不穏な空気がビンビン。ドキドキしました。
京香ちゃんは人前で勝手にケータイに出てしまい、新たな違反が追加。愛犬マロンと恋人を失います。さらに露伴も、『ヘブンズ・ドアー』で人の心を覗き見たせいで、右腕を失う事に!この土地は古来より「禁足地」だったって設定も、「山の神々」の存在の説得力を増しましたよね。「もう帰った方がいいよ」と一究さんに忠告されるも、ここで出た!伝家の宝刀「だが断る」!京香ちゃんを救うために戦う原作の持ち味は損なわれちゃったけど、これはこれで京香ちゃんのためだし、露伴のプライドの高さもよく分かる。しかも最後のトウモロコシ勝負も、原作と変えてきましたよ。手掴みまでは良かったものの、右腕が使えない露伴は、両手じゃないために違反になりかける……という工夫が足されていました。温かいうちに食べないとマナー違反って事で、自ずと時間制限が出来たのもお見事。
しかし、両手を使えない者に対して「両手を使わないのはマナー違反」などと咎める、思いやりのない行為自体がマナー違反。「相手を不快にさせない事」こそがマナーの本質なのです。その上、『ヘブンズ・ドアー』の命令により、畳の縁まで踏んでしまった一究さん。露伴は右腕を取り戻し、晴れて両手に!京香ちゃんの愛犬も恋人も取り戻した!一究さんが取り乱してキレちゃうのが早いな~と思ったんですが、そこからの追撃もスゴかった。「マナー違反をその場で指摘する事」こそが最大のマナー違反、というとんでもない言い分をブッコんできたのです。いやいや、それを言っちゃあおしめぇよ(笑)。原作の「そもそも」のところに切り込んだな!うん、素晴らしい。愉快痛快なフィニッシュでした。生意気なクソガキを負かしてめっちゃ嬉しそうな露伴がもう、ね(笑)。


ラストは、冒頭の泥棒に「ピンクダークの少年」のコミックスを差し入れ。その時の刑務官の声は、アニメで露伴役を演じられた櫻井孝宏さん(笑)。それは置いといて……、やっぱし露伴は自分のマンガを「読んでもらう」事が一番大事なんだなって、改めて思えましたね。このドラマ世界では、「ジョジョ」と同じく何年も何十年も連載を続けており、第8部に突入したらしい。そんな大御所になっても、彼の信念は揺るがないし動かない。「敬意を払うとすれば読者だけ」ってセリフは、原作のスタンスとはちょっと違うけど、それはそれでいいか。
そうして、カップの取っ手を指先で持ち、優雅に紅茶を味わって終わるのでありました。身をもって学んだマナーは、露伴の中に息づくリアリティとなるのです。


―― ファッションにしてもインテリアにしても調度品にしてもそうですが、現代が舞台なのに、作品全体にレトロでアナログでシックな雰囲気がありますね。荒木先生が「江戸川乱歩の世界」と評されたのも納得ってもんです。ドラマ化に伴って名付けられた、京香ちゃんの恋人の名は「平井 太郎」。これは江戸川乱歩の本名と同姓同名でして……、元ネタの乱歩の存在が常にスタッフさん達の念頭にあったんなら、ドラマ世界のビジュアルや空気が乱歩に近付くのも自然な流れでしょう。こういう世界観、好みです。BGMも自己主張しすぎず、でもさりげなく、確かに、我々を妖しくも奇妙な世界へと誘う助けになってくれました。曲のみならず、「無音」の間も効果的でした。
ちなみに、この平井太郎くん……、過去の記憶を失い、自分が何者か分からないという境遇は、「ジョジョリオン」の定助を彷彿とさせますね。今回の全三話を通じての縦軸になる重要人物らしく、富豪村を見付けたのも彼。京香ちゃんのマナー違反の代償として交通事故に遭うワケですが、その出来事がまた、彼の過去を想起させるキッカケにもなっているっぽいし。巧いよなぁ。
あえて、『ヘブンズ・ドアー』のヴィジョンを見せない、「スタンド」というワードを一切使わない。その潔い判断も良かったです。漫画ならお馴染みだけど、ドラマでいきなりスタンドを描いちゃうと、「露伴」というより「ジョジョ」になっちゃって主軸がズレちゃうからね。このドラマで見せたいものはそこじゃない、って事です。それよりも、その人の性格によって、本の内容や形状、材質を変化させるというこだわりを重視!このドラマは間違いなく、「岸辺露伴は動かない」でした。




(2020年12月29日)








第二話  くしゃがら



さて、続く第二話は「くしゃがら」。荒木先生の漫画ではなく、北國ばらっど氏が執筆した短編小説が原作のエピソードです。小説まで映像化してくれる事がありがたいですよ。もし今後も第2弾・第3弾と企画が続いてくれたとしても、ネタはたっぷり残ってるワケですもんね。選択肢や可能性が広がったって感じ。
ただ、ぶっちゃけ言って、「富豪村」よりはパワーダウンしちゃった印象かな。面白かったけど、初見の時点ではちょっと冗長に思えた。十五がひたすら「くしゃがら」「くしゃがら」言ってるだけの話を引き延ばしてるような、そんな風にも思えちゃって。50分だと長いから、いっそ小説原作はコンパクトに25分ずつ2話放送にしても良かったのかも?「検閲方程式」あたりなら、ちょうどいい塩梅になりそうじゃない?


今回はなんと言っても、志士十五のキャラクターがスゴかったですね。露伴と同じ漫画家だけど、性格はまるで違う。とにかく馴れ馴れしくて、ガラが悪くて、いかにも軽率そうなヤツ。しかし、漫画家としての信念や心根は露伴と通ずる部分もある。好きなキャラです。森山未來さんの演技は、ホントに十五のイメージにピッタリで、見てて楽しかったなぁ。冒頭のカフェでの露伴との丁々発止は軽妙で最高でした。2人の会話をずぅ~~っと延々映してくれてもいいぐらい(笑)。
「くしゃがら」という謎の禁止用語に取り憑かれ、だんだんと壊れていく十五。我を失い、狂気に突き動かされる演技がまたスゴい。舞台「死刑執行中脱獄進行中」でも見せてくれたように、森山さんは身体表現もズバ抜けてますからね。フラフラ歩いたりブッ倒れたりするだけでも、なんか訴え掛けてくるものがある……気がする。そういう意味では、主役を食っちゃうほどのインパクトを残してくれました。
十五といい、京香ちゃんといい、自分のペースを平気で乱してくるヤツに囲まれちゃった露伴。振り回されつつ、なんだかんだで優しさをチラ見せしてくれるところがニクイです。忠告を無視されてブチギレながらも、十五を仕事場まで送り届け、ついでにピザまでごちそうしてあげたり。イカれた十五から京香ちゃんを離そうとしてくれたり。少し京香ちゃんに慣れてきてる感じもあって、家から追い出しても、「富豪村」の時のように露骨にチッと舌打ちまではしなくなってますよね。ヤバい事態だっつーのに、十五の過去への好奇心でついウキウキしちゃったりもしてたし、そういう人間味も露伴の魅力です。


ストーリーのざっくりした流れは、ほぼ原作に忠実。ですが、「くしゃがら」絡みの設定はけっこう変わってましたね。「くしゃがら」を気にした者の末路が死(餓死・狂死)、っていうのもドラマオリジナルです。京香ちゃんの存在は追加要素ではありますが……、彼女は編集部サイドの人間なので、今回の話に関わる必然性もあり、違和感は特に無かったです。彼女も彼女なりに露伴に影響を受け、多少の役には立ってましたからね。さりげに、彼女の天然スルースキルは「くしゃがら」の天敵になってたし(笑)。
特に、十五の担当編集者に関しては、かなり変更がありました。小説では十五の「新人編集者」がリストを渡してきたんですが、ドラマでは元々の担当編集者が渡してきた事になっていたのです。京香ちゃんの見せ場を少しでも作るためか?この編集もどこからか「くしゃがら」を知り、それから逃れるために十五に伝えたっぽい。恐らく全ての黒幕(「くしゃがら」の成体?)であろう小説版の「新人編集者」が醸し出す、不気味な存在感不吉な余韻がめっちゃ良かったのにな。そもそも、それじゃあ一体、誰があのリストを作ったんだ?って疑問が出て来る。まぁ、「くしゃがら」を文字に残せているあのリストが元凶みたいなもんで、それを他人に渡して読ませれば「くしゃがら」から逃れられる……的なルールがドラマ版にはあるのかも。担当編集もどこからか回り回ってきたリストを受け取って「くしゃがら」に取り憑かれたけど、それを十五に引き受けてもらえたので助かった……みたいな?
でも、よくよく考えたら、十五も「くしゃがら」って文字を書き残したりネット検索したりしてるんですよね。読み返すと、原作でもネット検索はしていました。となると、「くしゃがら」に好奇心を抱き、完全に魅入られた者だけは、「くしゃがら」という文字を使用できるって事なのかな。神様のような高位の存在に禁じられた「くしゃがら」が、唯一、自分の存在を世に現し、伝染・繁殖するための手段……なのかもしれません。「くしゃがら」の立場からすれば、逆にどんどん使ってもらいたいぐらいなんでしょうからね。露伴には好奇心こそあれ、理性の枷もしっかり残ってたから使えなかった、と。たぶん京香ちゃんも、ネット検索しようとしても出来ずにいたんでしょうけど、もともと興味も無いから、大して気にもしなかった、と。魅入られてしまった者が助かる手段は、自分で記した「くしゃがら」という文字を他人に見せ、そいつが代わりに魅入られる事。で、魅入られた者が正気に返ると、そいつが書き記した「くしゃがら」の文字も消える。そう解釈しておくか。
あとは、「くしゃがら」って言葉が発作のように脈絡なく出て来るって場面も、もっとオーバーなくらいにやった方が怖かったんじゃないかとも思います。十五の発する言葉の中に、いろんな声色の「くしゃがら」がだんだんどんどん入り混じってくるトコが見たかった。せっかくのホラー味が薄まっちゃってた点は残念。

そしてラストは、本当は「くしゃがら」という言葉じゃないんだよ、というメタなオチ。これはNHKからのお断りの注意書きという形でフォローされました。うんうん、やっぱこの話のオチはこうじゃないとね!




(2020年12月30日)








第三話  D・N・A



さあさあ、ドラマ「岸辺露伴は動かない」のフィナーレを飾るは、荒木先生流少女漫画「D・N・A」!「ジョジョ展 in S市杜王町 2017」初日の早朝、雨の中、開場の時を待ちわびながら、「別マ」を読んで感動で泣きそうになった想い出深い作品ですからね。否が応にも高まる期待。


……まぁ、結果から言いますと、無難にまとめられた感はあるけど感動しました。太郎くんが原作での尾花沢さんに当たる人物って事は容易に想像が付きますが、精子バンクじゃなく臓器移植だったとは、ストレートすぎてむしろ意外。NHKの年末ドラマだからか、生々しい表現をことごとく改変したって印象です。それは血の一滴すらも排除するレベルで、今にも死にそうなはずの真依さんのダンナもピンピンしてるように見えちゃうほどの徹底ぶり(笑)。真央ちゃんの特徴にしても、大量の下マツゲやら、モミアゲやら、グジョグジョに濡れてる足やら、シッポやら……、そーゆーパンチの効いたヤツは全部無し!両眼の色が違うとか、何にでも潜り込むとか、なんともソフトな設定になってましたね。逆さま言葉だけは、荒木先生の希望で残されたようですが。正直、ちょっと物足りなさはあるものの、(昨日の「くしゃがら」じゃないけど)広い客層に観てもらう番組にするためには致し方ない配慮なんでしょう。
「D・N・A」というタイトルの意味合いについても、けっこうしっかり解説されてました。移植されたダンナの臓器(DNA)に刻まれた情報や記憶が、移植先の太郎くんの心に影響を与えた。そして、真央ちゃんは父親のDNAや魂を感じ取って、母親と巡り逢わせようとした。なるほど。ダンナと尾花沢さんが接点らしい接点も無い赤の他人だった事や、真央ちゃんがダンナの子じゃなかった事を思えば、原作よりも理解がしやすいかもしれません。脚本の小林靖子さんは、自分を「理詰めで考える」タイプと評していましたが、まさに理屈・理論で考えられたストーリーだなって。キレイなんだけど、荒木先生に比べてありきたりって言うか、少々おとなしすぎる。
露伴の出番を増やす代わりに、真依さんがあまりに受け身になっちゃってましたしね。せめて、真依さんと太郎くんが一緒に、真央ちゃんを車から守ってくれたら良かったんですけど。そこで2人ともお互いの存在が気に掛かる何かが起こり、それに気付いた露伴がみんなを「本」にする、みたいな。真依さんが単なる添え物、傍観者になっていた事には違和感がありました。もっと行動してくれよ。
ただ、ストーリー全体を「奇跡」という美しいワードで括ってくれたので、小細工抜きの清らかなロマンティック・ラブストーリーに仕上がっていたと思います。ダーク基調だった「富豪村」「くしゃがら」とは異なり、カラフルでキラキラしたイメージですよね。白昼夢でも見ているかのような、幻想的・幻惑的で儚い空気に満ちてる。


ビックリしたのが、『ヘブンズ・ドアー』の効果。なんと、今までのように顔が本になってめくれるのではなく、その人自身が1冊の「本」に変化しちゃった!一切の説明も無い唐突な設定変更は荒木イズムたっぷり(笑)。露伴が本気出せばそうなる、とでも解釈しときましょうか。無論、メタ的にはこれも、今回に限っては生々しい肉体表現を徹底排除し、あくまでビジュアルの美しさを優先したかったって事なんでしょうけど。太郎くんの「本」の見せ方には思わず唸りましたね。事故の前後で別人になってしまった事実が一目瞭然。太郎くんとダンナ、あのまま死ぬだけだったはずの2人。彼らの肉体とそこに残った記憶、弱々しい魂が入り混じって、辛うじて命を繋ぎ止める事が出来たんでしょう。今の太郎くんは新しい人物であり、やっぱ定助に近い存在だ。
そして……、真依さんと真央ちゃん、太郎くんの「本」が、飛び出す絵本になってて、それぞれの存在を求めるように手を伸ばしていた。露伴は、彼らの手を繋がせる。そんな表現もまた、愛があって、切なくって、イイ感じでした。その「本」と同じに、3人で手を繋いで歩く姿……、微笑ましくてグッと来たなぁ。真央ちゃん、めっちゃ可愛らしいなぁ。「きっといいヤツ」。良かったなぁ。原作よりサラッとしてた気もするけど、爽やかで優しいエンディングでした。
ちなみに、真依さんのダンナの名前は「央(あきら)」というそうです。真依と央で「真央」か。真依さんがどんなにダンナを好きだったか、彼を失ってどんなに悲しかったか、6年の想いが伝わってくるよう。その一方、冒頭で「たいわかドノ」っていう真央ちゃんの言葉を聞いた真依さんが、まるで初めて聞いた言葉みたいに考え込んでた不自然さ。娘としっかり向き合う事すら出来ずにいた、真依さんの恐れや孤独の大きさまでも伝わってくるようです。たぶん真央ちゃんは、両親の無意識の想い(願いや恐れ)を感じ取って、無意識に実現させてしまうギフト持ちだったんでしょう。でも、あの後はきっと、真依さんも真央ちゃんの全てをありのまま受け止めて、真央ちゃんのギフトもそれに伴ってほとんど消え失せて、……太郎くんと3人、幸せに暮らしていくんだろうな。

失恋したはずの京香ちゃんも、寂しげだけど、思いのほか元気そう。好きになった人が幸せなら、まぁ、いっか。そんなノリです。単に能天気なだけじゃなくて、優しさと強さを持つタフな子だ。第一、「今の太郎くん」の「性格」に恋してたってよりも、「昔の太郎くん」の「才能」に惚れ込んでたって言う方が正確な気がする。それがもう戻らないんじゃあしょーがない。そんなドライでシビアなところもあるのかな。イイよイイよ~!湿っぽいのは、キャラ的にも時期的にも作者的にも似合いませんからね。露伴もすっかり彼女と馴染んじゃってるし。今後も凸凹コンビで頑張ってくれるんでしょう。
そして、ラストの京香ちゃんのモノローグ。真央ちゃんの周りでなぜか事故が多発したように、露伴の周りにはいつも奇妙な出来事が起こる。それはもしかすると、確率的に起こり得る偶然の連続に過ぎないのかもしれないし、本人さえ知らない運命の遺伝だったりするのかもしれない。しかし、どんな理由でどんな事が起きようと、たとえマジに「奇跡」が起きようと……、露伴はただ、自身の好奇心にのみ従い、その事実を取材して漫画のネタにするだけなのです。岸辺露伴は変わらない。岸辺露伴は動かない。





―― そんなワケで、無事、全3話が終了いたしました。なんと言いましょうか……、「そのままでいい」のです。露伴は変人のままで、太郎くんは記憶が戻らぬままで、真央ちゃんは不思議な個性を持ったままで、「怪異」はそこに在るままで……、そのままでいいのです。異端も、異物も、そのままでいいのです。岸辺露伴は動かない。動かないままで、いいのです。全てをまるごと受け止め、呑み込んでしまえるくらい、世界は深淵なのだから。うん……、そんな感じ。
心底ハッピーで楽しい年末の3日間でした。「ジョジョ」や荒木先生を知らない人達にも、その面白さや魅力を体感してもらえるキッカケにもなったはず。世界中が大変な時にアレですが、つくづく良い時代になったもんですよ。制作にあたって、原作へのリスペクトと細部に至るまでの強いこだわりを持って挑んでくださった全ての方々に、改めて感謝いたします。素晴らしい作品をありがとうございましたッ!荒木先生も「ピンクダークの少年」のネームをわざわざ1ページ描いてくださったそうで、本当に贅沢なドラマだったよ。もっと観ていたかったけれど、惜しまれて終わるくらいがちょうどいい(笑)。いつかまた露伴や京香ちゃんと再会できる日を楽しみに待ってます!




(2020年12月31日)




(追記)
あれから何度か見返しました。観れば観るほどに、さらに面白く感じられてくる。ちょっと冗長に思えた「くしゃがら」も、この尺がベストに感じられてきて、まさかの「くしゃがらピザ」にも純粋に笑えるようになったし……、物足りなさがあったはずの「D・N・A」も涙が浮かんじゃうし……。作品全編に渡って、気品美意識「おかしみ」が匂い立ち、自然とまたあの世界に浸りたくなっちゃう。きっと今後も何回も見返すんだろうな。

ネットやSNSで感想を漁ってみても、かなり好評のようで一安心。こりゃあ、円盤化はもちろん、次回作もガチであり得ちゃうんじゃない?もしそうなった場合、何がいいかなぁ?個人的には「月曜日 天気-雨」が一番観てみたいですね。未知の生物ネタは大好物です。「ザ・ラン」もやっぱり欠かせません。露伴が鍛えてる事もドラマで語られていたワケだし、その流れでやっちゃえばいいじゃない。高橋さんには、今のうちから走り込んで体をキッチリ作っておいてほしい(笑)。再びハートフルに締めたいのなら、「望月家のお月見」か「密漁海岸」をちょいアレンジすれば大丈夫でしょう。
小説の方で言えば、「検閲方程式」や「血栞塗」あたりは映像化しやすそうです。荒木先生がプロットから関わった「楽園の落穂」も、設定を微調整すればイケるはず。映像化された「シンメトリー・ルーム」はスゴい観たいけれど、完璧なシンメトリーとなると相当難しいですよね……。「Blackstar.」はスパゲッティ・マンが最高に映えそうなんですが、さすがに後半が壮大すぎるか。まぁ、あの制作陣が挑めば、工夫次第でどのエピソードでも成立できると確信できます。
そして、ゆくゆくは劇場版として「ルーヴルへ行く」を上映!フヒヒッ、夢が広がりますな。


さて、SNSの感想で非常に面白い意見がありました。逆さま言葉を使う真央ちゃんが登場するエピソードは「D・N・A」。「DNA」を逆さまにすると「AND」。つまり、真央ちゃんが母親父親を繋ぐ存在という事が、タイトルですでに暗示されている、という事です。はぁ~~、なるほどなぁ。荒木先生が意図していたかどうかは謎ですが、実際に先生は逆さま言葉にこだわっていたようだし、とっても素敵な解釈ですよね。こういうのがあるから、他の人達の感想を読むのはやめられない。
ついでに言うと、原作の真央ちゃんには「つるつるのシッポ」があるんですが……、「D・N・A」のキーワード「きっといいヤツ」を逆さまにすると、「ツヤいいとっき」。「艶いい突起」=「つるつるのシッポ」となるワケです。あのシッポが真央ちゃんの心の形であり、一種のスタンド能力となっている事も納得できるというもの。本来、逆さま言葉とシッポは1セットって事ですね。ちょいと強引な気もしないでもない仮説ですが、自分では思い付けなかった解釈なので、ここにメモッておきます。いずれにせよ、「D・N・A」ってホントに名作だよなぁ。




(2021年1月2日)




(さらに追記)
またもや「D・N・A」の話になっちゃうんですが……、なんと、あの心温まるエピソードをおぞましいホラーとして受け止めた人もちらほらいるようです。太郎くんが臓器に宿るダンナの意識に乗っ取られた、と思ったらしい。
ほぉ~~、そう受け取っちゃうか~。原作を読んでる人なら、それがベースにあるワケだからそんな解釈はしないんだけど、初めて見る人ならそう感じてしまう可能性もあるって事ですね。荒木先生も「感動ハッピーエンド」と断言するエピソードなのに、だからこそ脚本の小林靖子さんも全3話のラストに持ってきたのに、歪んで伝わってしまったのであれば、その点は「失敗」と言えるでしょう。

最大の原因は何かと考えると、「きっといいヤツ」の使い方にあったのだと思います。原作では、尾花沢さんが真央ちゃんにジュースを手渡す際、「きっといいヤツ」と、流れの中でさりげなく使っていました。それを受けて、真央ちゃんも逆さま言葉ではなく、「きっといいヤツ」と返す。このやりとりを目の当たりにして、真依さんは尾花沢さんの中にダンナの心のカケラのようなものが居る事を確信したワケです。一方、ドラマはと言うと、真依さんの方から「きっと!」と太郎くんに投げ掛け、太郎くんは「きっと、いいヤツ」と答えていました。まるで2人だけに通じる合言葉みたいに唐突に。「あなたなの?」「ああ、そうだよ」と問答しているかのようにも見えてきます。これが、太郎くんの人格がダンナの人格に乗っ取られたと感じてしまう理由なのではないでしょうか?
なまじ、太郎くんに記憶喪失設定を付けた事も、そういう意味では裏目に出ちゃったのかもしれない。尾花沢さんはれっきとした自分の意志や想い出があり、自分の人生を歩んでいる人でした。(ダンナとは物理的・肉体的な接触も一切無いしね。) そのため、ダンナに人格を乗っ取られたなどと感じる人もいやしなかったはず。癖や嗜好といった無意識が少し引き継がれた程度だから、ダンナの心のカケラ魂のカケラが入り混じったんだな、と素直に思えました。ところが、記憶を失った太郎くんの場合はそれが無い。彼の内面も描写されず、真っ白なキャンバスのようにいくらでも塗り潰せてしまえそうなイメージばかりがある。あの「きっといいヤツ」で、ついに完全に太郎くんは消え去り、ダンナそのものになってしまった……と、不気味に受け取られても仕方ありません。

じゃあ、どうすりゃ良かったのか?結局、記憶喪失設定があろうがなかろうが……、「きっといいヤツ」が意図的・意識的に出て来たものではなく、癖と同じで自然に何気なく出て来たものと思えるようにするのが一番でしょうね。「オレ、事故で記憶がないんですけど、ひょっとして昔、どこかでお会いした事ありますか?」というくだりもあればなお良し。邪推っつーか、妙な深読みをする余地を残さない事。
やっぱり荒木先生が描かれた原作の流れには、ちゃんと必然性や意味があるんです。読者の感情を、ちゃんと自分が狙った方向に導いてくれているんです。その流れに沿うのが一番だったんじゃないかな、と。そうすりゃ、太郎くんは太郎くんのままだけど、言動の端々にダンナの息吹も確かに感じられるよね、って。今のふんわり太郎くんは、過去のバリバリ太郎くんとダンナの命と心が繋がった存在なんだ、って。そう理解させ、より多くの人を感動させる事も出来たんじゃないかと思います。そこは惜しいなぁ。




(2021年1月4日)




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