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ここに書いているのは、スタンドの個人的な解釈に過ぎません。
原作の設定・描写をベースに、
勝手に考察・妄想しただけのものです。
正確な公式データが欲しいという方には何の役にも立ちませんので悪しからず。




ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム / 本体: ジョルノ・ジョバァーナ
                      (本名: 汐華 初流乃)
< 「ゼロ」に戻す能力 >





<特徴>
2001年、本体:ジョルノ・ジョバァーナのスタンド『ゴールド・エクスペリエンス』は、仲間達が命を賭して託してくれた『矢』に刺される事で進化を遂げた。それがこの『ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム』(以下、『ゴールド・E・レクイエム』と略す)である。
『レクイエム (鎮魂歌)』とは、「スタンド」の先に存在し、スタンドの次元を遥かに超越したエネルギーの総称である。よって、厳密に言えば、『ゴールド・E・レクイエム』も「スタンド」ではない。(『ゴールド・E・レクイエム』という名の「レクイエム」なのだ。)


詳細は後述するが……、「レクイエム」とは、『矢』に眠る力を引き出し、スタンドのヴィジョンを「依り代」として「神」を宿らせた存在でもある。この世に現れ出た「神」そのもの、と言えよう。
しかし、「依り代」となるスタンドを生み出す本体が、その大いなる力の「器」足り得なければならない。「器」として相応しくなければ、発揮される「神」の力も意志も不完全・不明瞭なものとなり、その「レクイエム」は暴走し、忌まわしき厄災と化してしまうであろう。
だが、ジョルノは「健全なる肉体」と「清浄なる精神」を併せ持っていた。それゆえに、彼の「生命」は荒々しくも瑞々しく脈動していた。「神の器」として申し分なく、彼のスタンドを「依り代」とした『ゴールド・E・レクイエム』は完全かつ明瞭に「神」の力と意志を宿らせたのだった。


ジョルノが『矢』に選ばれた理由は、それだけではない。
己のスタンド能力を自覚して間も無かったジョルノは、短期間で多くのスタンド使い達と出会い、戦い、様々な能力を体験していく。その果てに、もともと優れた知能と鋭い直感を持つ彼は、スタンドに対する認識や理解を誰よりも深めていった。そして、ジョルノには正しいと信じる「夢」があり、それを叶えるためならば、どんなに苦難な道であろうと突き進む「覚悟」がある。しかし、幼少期の体験が原因なのか生来の性格なのか、他人とはあまり深く関わらず、1人でいる事を好んでいた。だが、ブローノ・ブチャラティ達とのほんの数日間の任務と旅を通じて、次第に仲間を「信頼」する心を得ていった。
そんな「スタンド使い」としての成長、「人間」としての成長を経て、ジョルノは『矢』に認められるだけの資格を持つに至ったのだ。


『ゴールド・エクスペリエンス』から脱皮し、この世に新たに生まれ出た『ゴールド・E・レクイエム』。以前の姿とは似て非なる、「神」をイメージさせる人型のヴィジョンを持つ。
その全身は神々しくも厳かな輝きを秘め、堂々たる王者の風格を纏っている。大きく見開かれた両眼は、真っ直ぐに未来を見つめる。そして額には、その先端を天に向けた『矢』が鎮座している。


パワーやスピードなどの「基本スペック」は、いくらか向上しているものの以前と大差は無い。


得意技は、両拳から放たれるパンチのラッシュ。その掛け声は、やっぱり「無駄無駄」




<能力>
悪しき行動や意志を「ゼロ」に戻す能力



『レクイエム (鎮魂歌)』とは、「全ての生物の精神を支配する力」を意味する。「精神(魂)」の領域・世界から生まれ出る「スタンド」の圧倒的上位存在であり、その力は「精神世界」の深奥部・根源にまで及んでいる。「精神世界」全体を束ねる支配者・王者とさえ言えるだろう。同時に「レクイエム」は、発現した時点での本体の心理(特に、強い理想・願望)をダイレクトに反映した能力を獲得する。したがって、本体の願いを叶えるために、「精神」に関係する能力を発揮するという形になる。
『ゴールド・E・レクイエム』の場合、本体:ジョルノ・ジョバァーナの「ディアボロを倒したい」「去って行った仲間達に報いたい」という想いが結実し、悪しき行動や意志を「ゼロ」に戻す能力として発現した。「正しき者」の行動や意志は遥かな未来にまで受け継がれ、「悪しき者」の行動や意志は敗れ去って滅びる。「過程」を重んずる者はそれに相応しい結果を得、「結果」のみを欲して他者を踏み付けにする者は永遠に結果に辿り着けない。そんな、ジョルノが求める「真実」「誠」を顕現する力なのである。


「ジョジョ世界」はある超越的・絶対的な力で満たされており、ありとあらゆる存在がこの力を共通して保有している。『フー・ファイターズ』(が引用した天文物理学者フレッド・ホイル)の言葉を借りるなら、その力とは「知性」である。全ての物質や生物はこの「知性」に導かれて生まれ、物質や生物に宿る「知性」は自身の「情報」を絶えず記憶し続けているのだ。
そして、この「知性」は大なり小なり互いに反応し合い、影響し合い、「物質世界」において1つの巨大な流れを形作る。何者にも抗えぬ「因果の流れ」、なるべくしてなる「必然の連続」。人はそれを「運命」と呼び、「運命」を決定付ける「知性」そのもの(が持つ意志のようなもの)を「神」と呼ぶのである。
スタンド使いを生み出す『矢』の原料は、数万年前に地球に飛来した隕石なのだが、その中には未知の殺人ウイルスが閉じ込められていた。このウイルスとは、他の「知性」との反応が強い「知性」の塊である。そのため、このウイルスに感染し生き残った者は、「知性」によって定められた「この世のルール」を1つだけ破れる許可証とも言うべき特別な力を獲得する事が出来る。これこそがスタンド能力の発現の原理である。
そして、「レクイエム」を生み出す『矢』(=ポルナレフが持っていたデザインの違う『矢』)の原料は、隕石の中でもとりわけ強力で異質な「知性」が眠る箇所だったのだろう。だからこそ、『矢』の力を引き出した「レクイエム」には、言わば「運命」の意志「神」の意志が宿っているのである。(詳細はこちら) 即ち、「レクイエム」とは「運命」そのもの、「神」そのものなのだ。


「運命」そのもの、「神」そのものであるがゆえに、「レクイエム」がこの世に存在できるのは1体のみである。同時に2体以上の「レクイエム」が発現する事はあり得ない。
「レクイエム」を生み出す『矢』も、恐らくこの世に1本しか無いものと思われる。そして「レクイエム」は、『矢』を自らの身体(ヴィジョン)に取り込み、その秘められし力ごと一体化する。暴走状態で不完全な「レクイエム」である『チャリオッツ・レクイエム』は『矢』を手に持つだけだったが、ジョルノの意志によって制御された『ゴールド・E・レクイエム』はその額に『矢』を配置し、完全に1つになった。
ちなみに、「レクイエム」を一度解除すると、スタンドと『矢』に分離する。再び「レクイエム」化するためには、改めて『矢』をスタンドに刺し直す必要がある。もっとも、本体の心がそのまま反映される「レクイエム」の性質上、再びまったく同一の「レクイエム」に戻れるかどうかの保証はない。


『ゴールド・E・レクイエム』は、「精神世界」を束ねる「王者」であり、「物質世界」の「運命」を決める「神」でもある。だからこそ、この世の全てが「支配領域」である。「射程距離」や「能力射程」といった概念自体、必要ない。つまり、あらゆる生物の精神は、もはや『ゴールド・E・レクイエム』の手の内という事だ。そのため、『ゴールド・E・レクイエム』自身と本体:ジョルノにとって「害悪」となる行動や意志を、瞬時に敏感にキャッチできるのである。
そして、それらの行動や意志を「ゼロ」に戻して無効化してしまう。のみならず、悪意の無いアクシデントであろうと、自然現象であろうと、とにかく「害悪」と見なされた「物質の動き」は全て無効化されるだろう。作中では、『キング・クリムゾン』の能力で消し飛んだ時間を、「逆行」させるという形で「ゼロ」に戻した。即ち、全ての攻撃や策謀、スタンド能力、出来事などを「無かったこと」にしてしまうのだ。何をやろうと「無駄」になる能力とも言え、「無駄」である事実を思い知らせるかのように、「害悪」と見なされた者の精神だけは「ゼロ」に戻された事を覚えている。
たとえその者が「自分がジョルノを殺す運命」を予知したとしても、その「運命」の結果に到達する事は決して無い。「ゼロ」に戻される以上、そこから先に進みようがないのはもちろん……、そもそも、「人」の身で覗き込んで知る事が出来る「運命」の内容には限りがあり、『ゴールド・E・レクイエム』の意志こそが真の「運命」になるからである。


上記の能力は、あくまで受動的な能力であり、「防御」のための能力である。それとは逆に、能動的な能力、「攻撃」のための能力も存在する。
『ゴールド・E・レクイエム』は、直接触れたモノ・殴ったモノの「運命」を無限ループさせてしまう。その「手」で「運命」の一部分を切り取り、その両端を繋ぎ合わせて固定してしまうのだ。あたかも数字の「0 (ゼロ)」のように閉じられた「運命」の輪。その中に落とされたモノは、延々と同じ「運命」を繰り返す事になるだろう。これは『ゴールド・E・レクイエム』が自らの意志で解除しない限り、何があろうと永久に続く。
作中では、ディアボロが『ゴールド・E・レクイエム』に殴り殺される事で、「死」という「運命」を繰り返す事となった。この場合、「いつ」「どこで」「どうやって」死ぬのかは固定せず、「死ぬ」という結果のみを固定したようである。そのため、ディアボロは「様々な時」「様々な場所」「様々な原因」で「死」を迎えた。そして、死んだ時点で「運命」は一周し、ディアボロは「生」を取り戻し、「いつか」の「どこか」へと移動。すぐさま「何か」の原因によって、再び「死」を迎えるのだ。
「運命」が一周するという事は、「ディアボロが死んだ」という結果も無になるという事である。さきほどの「ディアボロの死」という事実は、この世から消え去る。したがって、彼の「死」は誰の記憶にも何の記録にも残らない。ディアボロ本人の精神だけが死のループを自覚できる。永遠の恐怖と苦痛と孤独。どこへも向かう事が出来ない、「死」にさえ辿り着けないという「滅び」。終わりのない「終わり」。それこそが、「運命」が彼に課した罰なのであった。


作中において、『ゴールド・E・レクイエム』が発現した際、ジョルノは何故か宙に浮いていた。
凄まじいエネルギーの迸りか何かによる現象かもしれないが、上記の「運命の無限ループ能力」を応用したものだった可能性も考えられる。ジャンプした状態のまま、ジョルノの「運命」を固定。すると、「落下する」「着地する」という結果に辿り着く事なく、ずっと「宙にいる」状態をループする事になったのである。


「スタンド」であった頃の名残りとして、『ゴールド・エクスペリエンス』の「生命」を与える能力もそのまま使う事が出来る。
しかも、『ゴールド・E・レクイエム』が「運命」を決定付ける「神」そのものであるなら、どんな生物だろうと望むがままに生み出す事が可能になっているのかもしれない。すでに絶滅した生物だろうと、空想上の生物だろうと。


前述の通り、『ゴールド・E・レクイエム』は「運命」の筋書きを決める「神」である。そのため、「ゼロ」に戻す能力だけでなく、「運命」を書き換える力も備わっている。前者がジョルノの「レクイエム」としての固有能力、後者が「神」としての共通能力……というイメージだ。
作中では、自分が脱皮した「殻」の破片に触れ、「次の瞬間、ディアボロに命中する」という新たな「運命」に書き換えた。そうすれば、ディアボロがどこにいようと何をしようと、破片は必ず次の瞬間に命中する。ディアボロは「自分に命中した」という結果を予知できるから辛うじてガードできたが、彼以外の人間なら何も出来ぬままあっさり殺されてしまうだろう。その上、命中した直後に「生命」を与えてサソリに生まれ変わらせていた。さきほど付与した「運命」は、「殻」としては実現されたが、「サソリ」としてはまだ実現していない。それゆえに、サソリは「運命」に従って、次の瞬間にディアボロに命中。彼を刺したのだった。
ディアボロはこれらの攻撃を「スゴイ パワー」「脅威」などと評したが、『ゴールド・E・レクイエム』自体のパワーやスピードとはまるで無関係の現象である。定められた「運命」が実現されていく、絶対的でどうしようもない力を利用しただけなのだ。


いかに『矢』に認められたジョルノと言えども、1人の人間に過ぎない。「運命」や「神」の力を完全に制御・支配する事など不可能である。暴走こそしていないが、自分の「レクイエム」の全貌を知る事も出来ない。その力の一端を感覚でなんとなく理解し、訪れた結末に奇妙な確信を抱くだけであった。
能力のほとんどは、『ゴールド・E・レクイエム』が本体:ジョルノの意志や感情を読み取って、自分自身で使っていた。『ゴールド・E・レクイエム』に宿る「神」の意志が、自ら力を振るっていた。「神」の意志は、どんな環境や能力であろうとまったく影響を受ける事なく保たれている。作中では、消し飛ばされた時間の中で『ゴールド・E・レクイエム』が喋っていたが、あれはまさしく「神」の言葉なのである。
逆に言えば、この「神」の意志に沿う出来事に対しては、『ゴールド・E・レクイエム』の能力は一切発動・関与しないという事になるだろう。第6部にて、エンリコ・プッチが『メイド・イン・ヘブン』の能力で時間加速・宇宙一巡というとんでもない現象を起こしたが、『ゴールド・E・レクイエム』に阻止される事もなく実現された。それは結局のところ、この現象を「神」が望んでいたからこその結果である。何が「正義」で何が「悪」なのかは、あくまで「神」の視点によって決められるのだ。


以上のように、『ゴールド・E・レクイエム』は「孤高」・「究極」の次元に達した唯一無二の存在なのである。ゆえに、これは「最強」の能力などではない。文字通り「無敵」の能力なのだ。
だからこそ、人と人の争いの中に「神」を降ろす事になる『矢』と「レクイエム」は、本来ならば禁じ手中の禁じ手と言えるだろう。
だが、ジョルノとディアボロは共に数奇な出自を持った者。ジョルノは「神(ディオ)」の名を持つ吸血鬼となった男の血を引き、ディアボロは2年以上も母親の胎内にいた二重人格者である。恐らく、ディアボロの父親は普通の人間ではなく、俗に「悪魔(ディアボロ)」と呼ばれる存在か、それに魅入られてしまった者だったと思われる。即ち、ジョルノとディアボロの抗争は、人と人の争いというだけでなく、「神の子」「鬼の子」「悪魔の子」の争いでもあるのだ。
すでに「人」の領域を超えた抗争だったがゆえ、『矢』も運命的にその中に辿り着く事が許されたのかもしれない。ちなみに、『矢』を発掘したのはディアボロ本人で、それを彼から買ったのは「両右手」のエンヤ婆。彼女を通じて『矢』に射抜かれ、スタンドを身に付けたのはDIO。そして、『矢』によって「レクイエム」を発現したのはジョルノである。『矢』は「人」を超えた者の手に、自然と流れ着く物なのだろうか?




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