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「ジョジョリオン」の謎と考察・予想をまとめたよ


No.31 【 「呪い」とは何なのか? 】






【第1版】
第1話ラストの康穂のモノローグによれば、この「ジョジョリオン」という物語は「呪い」を解く物語なのだそうです。
さらに、ここで言う「呪い」とは、主に次の3つの意味を持つらしい。1つは、自分の知らない遠い先祖の犯した罪から続く「穢れ」。1つは、坂上田村麻呂が行なった蝦夷征伐から続いている「恨み」。そしてもう1つは、人類が誕生し、物事の「白」と「黒」をはっきり区別した時にその間に生まれる「摩擦」
この説明だけではざっくりし過ぎてて、今イチ分かりにくいかもしれません。結局、「呪い」とは何を示しているのか?物語のテーマそのものでもある「呪い」について、もうちょっと具体的に考えてみたいと思います。



まずは「穢れ」について。
先祖の犯した罪が、今を生きる子孫達の人生をも縛り付けてしまう。そんな重苦しいイメージを受けます。「ジョジョリオン」において先祖と言えば、やはりジョニィ・ジョースターを思い出す事でしょう。1901年、ジョニィが杜王町に持ち込んだ「聖なる遺体」。ジョニィは愛する妻と息子を救うため、「遺体」の力を使い、そして自ら命を落としました。……ところが、そのジョニィの意志と行動は、彼自身も意図しない形で後の世にまで影響を及ぼし続けています。「カツアゲロード」はその一例。
これと同じような事が、他にも起こっているのではないかと私は予想しています。幼児が杜王町に漂流したのも、東方家が「石化病」を「等価交換」できるようになったのも、「岩人間」が現れたのも、全てはジョニィが愛ゆえに犯してしまった罪深き行為が始まりなのです。(⇒ No.13 【第1版】、 No.10 【第1版】、 No.5 【第1版】参照) つまり、過去から連鎖し続ける「悪影響」こそが、「穢れ」であり「呪い」なのでしょう。
悪人はいつから悪人なのか?悪人の子は生まれながらに悪人なのか?親の影響から逃れる事は出来ないのか?罪や悪意もまた、子孫に受け継がれてしまうのか?「ジョジョリオン」では、そんな問いの答えも描かれそうです。


次は「恨み」について。
これに関しては、今のところ、作中ではまったく触れられておりません。田村麻呂さんも蝦夷も、まだカケラも出て来ていない。……なので、勝手に妄想しておきました(笑)。
東方家の「石化病」が始まるキッカケとなった出来事は、蝦夷征伐の時代に起こったのです。東方家の先祖は、仲間達を裏切って犠牲にし、そのおかげで生き延びて繁栄していけたのです。(⇒ No.15 【第1版】参照) そして、裏切られた者達のごく僅かな生き残りは、今もなお東方家を強く憎み続けているのです。「石化病」は言わば、東方家への「恨み」の象徴。真実を知らぬ者からすれば、東方家は裏切られた者達に呪われて石になったと思うはず。つまり、東方家の罪の証たる「石化病」こそが、「恨み」であり「呪い」なのでしょう。
杜王町は蝦夷征伐が行われた東北地方にある町。そもそも杜王町自体が、哀しい歴史や風土、文化も秘められている、呪われし土地だったりするのかもしれません。「SBR」で「呪われた者」とも評されたスタンド使いを増やす場所(=「壁の目」)まであるくらいですし、「呪い」とは縁が深そう。


最後は「摩擦」について。
人間はとかく、「白」と「黒」をハッキリさせたがる生き物です。自分と他者を安易に比較しては、「優」か「劣」か、「勝ち」か「負け」かを決め付けたがる。自分こそが「善」と思い込み、相容れぬモノ全てを「悪」と見做して拒絶する。……しかし、世の中はそんな単純なものではありません。見方によって両者が入れ替わる事もあれば、「白」でも「黒」でもない「灰色」だってあるのです。そして、その「灰色」こそが、「東方定助」という存在そのものでもあるのでしょう。
「灰色」を「白」か「黒」のどちらかに当てはめなければならないのだとしたら、ありもしない答えを求めて、人々は大いに悩み苦しむはず。定助もまた然り。記憶を失う前の自分は誰だったのか?今の自分は何者なのか?それをハッキリ知ろうとすればするほど、定助の苦悩と孤独はより強くなっていくのです。そして、その苦悩と孤独は、必ずしも定助だけのものではありません。人としてこの世に生きる限り、誰にだって起こり得るものです。例えば、父親を知らず、アバズレな母親との不和という家庭内の問題を抱える「広瀬康穂」にだって。(⇒ No.36 【第1版】参照)
彼らに共通しているのは、自分の存在に疑問を抱いている点です。「自分自身」が揺らいでいて、曖昧で、不明瞭で、おぼろげ。そんな自分に「誇り」を持つ事など出来ないし、自分がどこに居るのか、どこに居ていいのか、どこへ向かえばいいのかさえも分からない。これほど頼りなげで恐ろしい事はないかもしれません。つまり、自分で自分を認めてあげられない「自己否定」や「自己喪失」こそが、「摩擦」であり「呪い」なのでしょう。
そう考えると、「自分」と「他者」の境界を超えて混じり合わせる「壁の目」は、実に象徴的な舞台装置と言えます。



――実際のところ、これら複数の要素が複雑に絡み合って、「呪い」として降り掛かって来ているのでしょう。だとしても、この中で最も厄介な「呪い」は、「悪影響」でも「石化病」でもなく「自己否定」「自己喪失」に陥ってしまう事だろうと思っています。物質的な現象なら解決手段もあるでしょうが、心の在り方の問題となると難しい。この場合、「呪い」という言葉は、「誇り」の対義語となります。
「ジョジョ」1〜6部の主人公達は、その「血統」ゆえに「誇り」を得、それを力に変えて成長し勝利してきました。「血統」が自分自身の礎(いしずえ)足り得たワケです。(ジョルノだけは特殊で、「誇り」の源は自分を見守ってくれたギャングの男であり、「血統」は利用価値のある道具・武器くらいの認識っぽいですが。) ところが、世界そのものがガラリと変わった7部「SBR」以降では、逆に「血統」が「呪い」に繋がっています。「血統」を「誇り」にする役は、ジョースター家ではなくツェペリ家のジャイロに引き継がれました。ジョースター家のジョニィはと言えば、自分のせいで兄が死に、父親にも蔑まれ疎まれる、最悪の家庭環境。自分の血と宿命を激しく呪っていたのでした。
そんなジョニィが救われ清められたのは、ジャイロと共に走り抜けた「祈りの旅路」ゆえ。親友と助け合い刺激し合いながら、「再生」を追い求める戦いの果てに、ようやく自分の「帰る場所」と「誇り」を得る事が出来たのです。

そして8部「ジョジョリオン」では、さらに進んで、「血統」以前に「自分」が何者かも分からない主人公。「血統」を「誇り」にする役は、今度は東方家の人々に引き継がれています。定助には自分自身の礎がまったく無い。そんな不安定な状態じゃあ、「誇り」も「自信」も得られようはずもなし。定助に協力する康穂もまた、自分の居場所がないと苦悩しています。
自分で自分を好きになれず、自分を信じてあげる事も認めてあげる事も出来ない。こんなにも虚しく痛ましい事があるでしょうか?……しかし、この物語のタイトルは「ジョジョリオン」。必ずや「福音」が齎されるであろう事が、すでに約束されているも同然なのです!現に、定助も康穂も決して絶望などしません。「自分がやりたい事」と「自分に出来る事」を知り、それを道標に前進し続けています。そしてゆくゆくは……、ジョニィがジャイロとの友情によって救われたように、定助と康穂はお互いを誰より大事に想う恋愛感情によって、互いに導き合い、救い合うのではないかと期待しています。
自分がこの世に生まれた理由とは、この上なく残酷なものかもしれない。探し求めた「自分」は、何者よりも汚らわしく忌まわしい存在かもしれない。それでも、「白」にも「黒」にもなり切れない「灰色」のままの自分を認め、そんな自分だからこそ出逢えた大切な人と共に、自分達にしか歩めない道を進んで行く。我々読者の心をも「呪い」から解き放ち、救済し、浄化し、祝福してくれる。希望と勇気が湧き上がって来る、誇り高き「人間讃歌」。そういう作品になると確信しています。



(追記1)
第46話冒頭の「岩人間」解説によると……、「岩人間」は、ここ数千年の「人間」の人口増加や文明の発展によって、土地や生活環境を減少・激変させられてしまった模様。それゆえ、人間社会に「寄生」して生き永らえる者達が現れました。そして、そんな歴史的理由もあって、「人間」との共存や相互理解は不可能になっているようです。
つまり「岩人間」は、「人間」に住んでいた場所から追いやられ、生きる領域を侵され、穏やかな生活を奪われてしまった被害者だったのです。彼らが敬う大地や自然も、今なお「人間」が穢し続けています。自分達の都合だけで、自分達の目先の豊かさだけを追求して、自然や他の生命への感謝・畏敬を忘れ去った「人間」。そんな「人間」に対し、「岩人間」が嫌悪憎悪しているであろう事は、想像に難くありません。
この「人間」と「岩人間」の関係性もまた、1つの「呪い」であるように思えてきます。「穢れ」「恨み」「摩擦」も、ワード的にはピッタリ当てはまる(特に「摩擦」)。ある意味、「岩人間」とは「妖怪」であり、「自然」の意志そのものであり、日本人が古来から受け継いできたはずの心の在り方の象徴でもあるのかもしれません。もちろん、「ジョジョ」は「人間讃歌」なのですから、「人間」の醜い行いを責めるだけの物語などにはならず、「人間」の素晴らしさをこそ描き切ってくれるでしょうけどね!



(追記2)
第64話冒頭のつるぎちゃんのモノローグでは、「地形」とは「呪い」だと語られていました。生まれる土地と、付けられる名前は、自分の自由では選べない……と。その土地・その地形だからこそ起きてしまう災害もあるでしょうし、その家・その名前だからこそ見舞われてしまう不幸もあるでしょう。自分の意志ではどうにもならないもの。それは「呪い」であり、「宿命」でもあります。
これらもまた、「穢れ」「恨み」「摩擦」の全てが当てはまると言えるかもしれません。その土地ゆえに連鎖する「悪影響」、その家系ゆえに受け継がれる「石化病」、そして、それらが絡まり合って生じる「自己否定」「自己喪失」。定助や康穂、つるぎちゃん達は、この複雑にこんがらがった「因縁」という名の糸を1本1本解きほぐし、断ち切っていかなければならないのです。



(追記3)
結局のところ、「呪い」とはその人の心や人生を縛り付けるあらゆるものなんだろうと思います。


それは例えば、場合によっては、「幸せ」を求める想いでさえも。「ジョジョリオン」では、多くの人物が自分の「幸せ」の定義を語ってきました。
大弥ちゃんにとっての「幸せ」は、思い出を誰かと共有する事。常敏にとっては、何かを乗り越えようとする事。憲助さんにとっては、家族が良いと思い「幸せ」と思う事。カレラにとっては、「今」楽しくて素敵な気持ちになるために生きる事。ジョニィは、交換できない「幸せ」を胸に死んでいきました。仗世文は、自分の心の中にある「幸せ」のイメージのために、己の身を差し出しました。常秀は、成功者と自分を比べて、自分に何があるのかと「幸せ」への道を模索。密葉さんは、「知らなかった」で逃げたら「幸せ」にはなれないと、あえて自ら「ロカカカ」を口にしました。そしてつるぎちゃんは、何が揃っていれば「幸せ」なのかと自問を繰り返しています。
敵の「岩人間」達だって、各々の「幸せ」を追求しています。羽先生に至っては、自分の行いは公益であり、どんな秘密もゲス行為も許されるなどと講釈たれてましたし。

それらの想い自体はとても純粋なものなんですが、他者を犠牲にしてでも自分だけの利益・幸福を追い求める事は、決して正しいとは言えないでしょう。「幸せ」になるためには「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」。そう自分自身を縛り付け、その「幸せ」の形を他者にまで押し付ける事に繋がります。
実際、東方家の面々は特に顕著。いくら家族と言えど、お互いに深く踏み入る事はなく、どんなに仲良くしていても「個」と「孤独」が常に感じられます。そのせいで、考え方ややり方の些細なズレがそのまま放置され、結果として次第次第に大きな不和となっている気がします。人間の本性・本質たるスタンドが見える一家だからこそ、お互いにどこかで避け合い、無関心・不干渉を貫くスタンスに自然となっていった部分もあるんでしょう。

また、本来は見えないはずの心の力=スタンドが見えるばっかりに、「自分の目に見えるもの」しか信じようとしない傾向も見受けられます。「正しさ」も「愛」も「幸せ」も、目に見えるものではありません。「目に見えるもの」しか信じないと、結局、いろんな事を見失ってしまう。それがすれ違いや疑心暗鬼に満ちた状況を招いてしまうのです。
そういう「孤独」「無関心」も、「すれ違い」「疑心暗鬼」も、すべて、自分だけの「幸せ」を求める想いから生まれる「呪い」です。「幸せ」になるために手段を選ばず、他者を「幸せ」への障害物としてしか見られずに疑い憎み、それゆえに他者からも疑われ憎まれる。だから衝突して、傷付け合う。そんな独りっきりの道の先に、果たして本当に「幸せ」があるのでしょうか?



「幸せ」を求める者達が今、奪い合っている物が「新ロカカカ」。また、「SBR」においては「聖なる遺体」でした。これらは「等価交換」のパワーを持っているんですが……、よくよく考えれば、この「等価交換」自体も随分いびつな力です。
交換する者同士の立場が平等でもないし、取引において「情報・条件の開示」や「双方の承諾・納得」もない。自分に足りない部分を奪い取る、自分の要らない部分を押し付ける、そんな一方的で身勝手極まる交換なのです。

そうではなく、お互いに欠けている部分を補い合う、「相互補完」という意味での「等価交換」こそが必要なんじゃないかと思うワケです。自分の「幸せ」を求める心は否定できないし、綺麗事だけで通用する世界でもありません。それでも、ほんの少しずつでも、お互いに自分以外の誰かを想い合えたなら、忌まわしい「呪い」を解く光になるんじゃないかと思うワケです。
これをすでに実行してくれている好例が、誰あろう、定助と憲助さん。定助にとっての憲助さんは、最初は「一番怪しい人物」でした。ところが、今では「尊敬すべき家長」となっています。「最大の敵」と思い込んでいた相手が、本当は「良き理解者」になってくれる人だったのです。そんな疑心暗鬼という「呪い」が解けたキッカケは、お互いにちゃんと向き合い、会話を交わした事。分からない事を質問し、思っている事を伝える。シンプルで当たり前の事ですが、これに尽きます。そして、東方家にしろ、定助と康穂にしろ、それが決定的に欠けてしまっているように思えるのです。

ホリーさんだって言ってました。自分の事だけ見つめていると、大切な事は見えない……と。憲助さんだって言ってました。物事には自然な「流れ」があり、それに逆らわなければ必ず目的地に辿り着ける……と。
自分だけの狭い価値観で凝り固まってしまうと、目も心も曇ってしまいます。自分の世界を広げ清めてくれるのは、いろんな人達との出会いと繋がり。時には傷付く事もあるし、面倒な事も怖い事もありますが……、歩み寄り、しっかりぶつかり合わなきゃ何も変わらないし、認め合って尊重し合う事も出来ませんからね。



そして、作中で新たに出て来たワード「因果応報」。明負院長のスタンド能力に襲われた者達が語るこの言葉。これもまた、「呪い」を考える上で重要な概念となりそうです。
自分の行い、あるいは先祖の行い、果ては人類全体の行い。それらが回り回って、巡り巡って、自分に返ってくる。良い事なら願ってもないけど、悪い事ならたまったもんじゃありません。まさに「呪い」。しかし、それも含めて自業自得だし、「運命」というものなのかもしれません。
だとすると、「呪い」とはこの世のシステムの一部とすら言えそう。自分の事だけを考えて他者を踏み付けていると、やがては自分に「禍い」が降り掛かって来るのです。

「ジョジョリオン」の舞台である杜王町には、それはもう、自分勝手なヤツや無関心なヤツが跋扈しています。そんな呪われた世界の中で、「定助」という存在はあまりにも無垢。吉良と仗世文、自分を犠牲に相手を救おうとした2人の願いの結晶なんですから。定助は自分を孤独だと思っていましたが、本当は2人の繋がり・絆そのものなんです。さきほど言った、お互いに欠けている部分を補い合う「相互補完」の体現者なんです。
しかも、初めこそ「奪う」という能力を使っていましたけど、今やすっかり使用されなくなっています。「しゃぼん玉」に「包み込む」能力と、「爆発」する「しゃぼん玉」の能力、仗世文の優しさと吉良の厳しさをそのまま受け継いだような2つの相反する能力を駆使しています。その辺も実に象徴的。

その上、ホリーさんを「母」と確信し、その深い愛で成長した定助。もはや彼の存在すべてが、「呪い」を打ち破る「福音」なのでしょう。その意志と行動は、きっと、彼自身を東方家とも康穂達とも一緒に「正しい道」へと歩ませ、みんなと「幸せ」を手に入れてくれるはず。
そして、今まさに新型コロナウイルスの感染拡大によって、様々な「厄災」と「呪い」を受けてしまった世界に生きる我々にも、ささやかな「福音」を、「幸せ」のヒントを齎してくれると信じています。




(2015年3月5日:【第1版】更新)
(2015年8月23日:【第1版】追記1)
(2017年5月7日:【第1版】追記2)
(2020年5月6日:【第1版】追記3)




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