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荒木飛呂彦の漫画術





2015年4月17日に発売された、荒木先生にとって3冊目の新書「荒木飛呂彦の漫画術」。以前の2冊はどちらも「映画」について語った本でしたが、今回は本職である「漫画」について語られています。
これが実に面白い。内容的には、かつてインタビューや講演等で語られていたものがほとんどであり、しかも「王道」がテーマである事も相まって、概要自体の目新しさ・奇抜さはそんなに感じません。しかし、それぞれの項目が、実例を挙げながら詳しく丁寧に掘り下げられており、この上なく興味深いものになっているのです。漫画家を志す人はもちろん、そうではない荒木ファンにとっても間違いなく必読の書。……あ、この後も延々ベタ褒めしまくりなんですが、荒木ファンとして仕方ない事と思ってやってください(笑)。

そもそもこの本が書かれる事となったキッカケは、初代担当編集者であった椛島さんの定年退職だったそうです。この出来事はまさに、荒木先生の漫画人生における1つの区切りであり節目。椛島さんへの、そして漫画界への恩返しの気持ちも込めて……、先生自身が長年の経験と研鑽の末に体得した「漫画術」を形として残してくれたものが、この本なのです。と同時に、ここに書かれている事を「基本」「原点」「帰る場所」として、漫画界のさらなる「先」へと進んでほしいという願いも込められているのです。この本は即ち、荒木先生が歩んできた「漫画道」の集大成であり、荒木先生から我々に託された「黄金なる遺産」と言えるでしょう!
それほどの熱く切実な想いで書かれているだけあって、先生の伝えたい事が小細工なしにストレートに伝わってきました。個人的には、前の2冊よりもなお読みやすく、かつ読み応えもありました。先生は本当に漫画を描く事が大好きで、楽しんで仕事しているエンターテイナーなんだなと確信できる。私は漫画家を目指す人間ではありませんけど、読んでいると、なんだか勇気とやる気が湧いてくる。そんな良書でした。



おおまかな感想としてはこんな感じですが……、まだまだ語り足りないので、以下、箇条書きでッ!



@漫画の「王道」は人生の「王道」!
この本に書かれているのは、「漫画の描き方」とはちょっと違います。下描きして、ペン入れして……という実際の作画の方法に関しては、軽く触れられている程度。まあ、それは描き続けてりゃ自ずと身に付くし、とにかく描かなきゃ絶対上手くならんってシロモノなんでしょう。荒木先生が伝えようとしているのは、それよりもっともっと前の段階。アウトプットする前の、インプットについて。
「漫画」というジャンルは、紙の上に「1つの世界」を創り出すと言っても過言ではないジャンルです。自分の「漫画」の世界に必要なあらゆるものを、自分の手で描き出さなければなりません。それゆえに、我々が存在するこの世界の様々な事柄を認識し、興味を持ち、調査し、理解する事が不可欠です。そんな「自分の世界」を広げ、深めていくための方法論こそが、この本で最も大切な部分なのだと思います。それは「漫画」だけに留まらず、全ての「仕事」に、そして「人生」にまで共通する、「基本」であり「王道」であると感じました。
荒木先生が体得し実践し続ける「王道」が、創作に対するストイックなまでの信念・思想・美学・哲学・矜持・情熱に絡められて、分かりやすく解説されています。これはもう、技術うんぬんというより、姿勢や心構えのお話。ですから、荒木先生の事を知らない、「ジョジョ」を読んだ事もないって人にも十分オススメできる内容なんです。


A「必要性」と「必然性」を貫く!
「最初の1ページ」にせよ、「基本四大構造」にせよ……、つまるところ荒木先生は、創作において「必要性」「必然性」を何よりも重視している人なのでしょう。
先生はともすれば、感性やセンスだけで漫画を描いているように誤解されがちですが、実際はむしろ逆。ジャンルを問わず他人の作品を分析しまくり、過去の失敗も糧にし、キッチリ計算して漫画を描いている人です。全ての描写には、それが作品にとって必要な理由・意味があり、そうなるべくしてなる流れの必然もすでに作り込まれているのです。感性やセンスが際立って感じられるのは、きっと作品の根底が盤石で自然だからこそ。
先生自身も作品同様、根底が確固として揺らぎません。そのおかげで我々は、安心して作品にドキドキできるワケです。作者への信頼によって、作中のサスペンスだけを集中して楽しめるワケです。そんな揺らがぬ「一貫性」こそが、荒木作品の、ひいては荒木先生自身の最大の魅力と、私はずっと思っています。ズバッと堂々と言い切ってくれる、最後まで貫き通してくれる。それがなんかスカッとして心地良いんですよ。この本にもそれがあります。


B勝負で負けても目的に近付けば「プラス」!
ストーリーの作り方の章で書かれていた「主人公は常にプラス」。主人公が「マイナス」になるストーリーはあり得ない。プラマイゼロもダメ。
これにはけっこう驚きました。ストーリーの途中で主人公が敗北・挫折を味わい、そこから這い上がって、さらなる高みへと辿り着く……というのは、私にとっては燃える展開だし、それこそが「王道」だと思っていたからです。
しかしそこは、「少年ジャンプ」という戦場で週刊連載を長年続けてきた荒木先生。連載の1回1回が勝負で、毎回毎回山場を作って盛り上げなければ、生き残れない厳しい世界。そんな日々の中で獲得した視点なんでしょうね。ただ、ここで重要なのは、読者の心理状態がマイナスになる展開が「マイナス」のストーリーであるって事。逆に言えば、たとえ勝負に負ける展開だったとしても……、主人公が目的に近付けるのなら、読者が前向きな気持ちになれるのなら、それは「プラス」のストーリーなのです。

例を挙げれば、「SBR」が分かりやすいかも。(元より「SBR」は目的地に向かって前進し続ける「プラス」のストーリー展開ですが、それとはまた別に。)
まずは、3rd.STAGEゴール時のジャイロ。なりふり構わず全力で走っても、ジャイロは1着ゴールできず完敗しました。これだけ見れば「マイナス」なんですが、ジャイロはそこで挫けたりイジケたりはしません。敗北から学び、すでにこれからの事を見据えているのです。そんなジャイロの姿に、読者は主人公の成長を予感し、期待するワケです。これはもう、十分に「プラス」のストーリー。
また、6th.STAGE途中のミルウォーキーにて、ジョニィは「聖なる遺体」を敵に渡すハメになりました。大切なものを失い、大泣きするジョニィ。しかし、それはジャイロという友を救うための行為であり、結果、ジョニィとジャイロの絆はさらに強くなりました。読者はそんな主人公に希望を見、清々しい感動に包まれたのです。これも「プラス」のストーリーと言って、何ら差し支えないでしょう。
「富豪村」にしても、私は今まで、プラマイゼロのストーリーと思っていました。結果的に、誰も何も得ていないし失ってもいない、と。……でも、それは思い違いでしたね。そもそもの話、「富豪村」における露伴の動機は、あくまで「好奇心を満たす」事なんですから。マナー勝負に勝ち、奪われたものを取り戻したと同時に、露伴の好奇心も満たされたのです。だから、露伴はさっさと立ち去ったのだし、笑顔で終わる事も出来たワケです。「富豪村」は、物質的にはプラマイゼロでも、主人公の精神的には「プラス」のストーリーでした。


C漫画は「芸術作品」であり「娯楽商品」でもある!
荒木先生は漫画を「総合芸術」と評していますが、「芸術」とは言ってしまえば、自分が「美しい」と感じるものを表現する事です。自己表現であり、自己満足であり、自己完結する行為なんです。それゆえに、鑑賞する側も自分勝手に評価できてしまいます。ピカソの絵にしたって、何億積んでも手に入れたいという人もいれば、ただのラクガキとしか思えない人もいるでしょう。まさに「個性」「唯一性」の世界です。
でも、先生がこれほどまでに「王道」にこだわるのは、時代や場所を超え、より多くの人に理解され共感してもらえる「一般性」「普遍性」を求めているからに他なりません。当たり前の話ですけど、先生も自分の漫画を売ってお金を貰い、生活しているからです。集英社と契約し、自分の漫画を売ってもらっているからです。プロである以上は、出版社の利益になる「娯楽商品」を提供する義務と責任があるのです。だからこそ、自分の好きな事をただ好きなように描くのではなく……、大勢から受け入れられ読んでもらえるように、決められた値段で買ってもらえるように、漫画を描く必要があるワケです。
漫画家に限らず、ミュージシャンも小説家もデザイナーも、「芸術」でメシ喰ってる人達は、常にそのジレンマを抱えながら仕事をしているはず。無論、荒木先生も。……ただ、先生のスゴいところは、「芸術」と「商売」のバランスを巧みに取って、両方の意味で漫画の価値を高めてしまえるところです。そのために自分が守るべきルールを自分で決め、ひたすらに守り抜く。この簡単なようでとてつもなく難しい事を続けられる人だから可能なんでしょうし、何より、「漫画」に対して深い敬意と愛情と遊び心を持っているからこそ出来るんでしょうね。


D「発想」は飛躍する!
「岸辺露伴は動かない」シリーズを例にストーリー作りが説明されていましたが、その部分だけでも、荒木先生の発想の飛躍っぷりに戸惑います。
「密漁海岸」では、食べ物で戦う予定が「鮑と戦う」ストーリーに変わったとの事。「富豪村」も、別荘族の会話から「マナーの戦い」というアイディアを思い付いたらしい。自分じゃ絶対に出て来ないであろうフリーダムな発想に、ただただ圧倒されました。先生の中には、それらのアイディアを閃くに足る材料が揃っていて、全ては必然なのかもしれません。でも、やっぱ荒木先生じゃなきゃ思い付かないし、とても最後まで描き切れないアイディアだよなあ。
「王道」を歩んでいても、そもそもの発想が個性的だから、独創性たっぷりな漫画になる。面白い漫画を描きたいのなら、まず面白い人間にならないといけない。いろんなものに興味を持って、いろんな事をインプットして、いろんな視点や考え方を身に付けて……、そうやって「オリジナリティ」が滲み出てくるぐらいに自分を成長させないといけないんでしょうね。漫画は描いていない私ですが、自分はまだまだまだまだ薄い人間だなぁと痛感させられます。


E「身上調査書」が見たい!
誰もが思った事でしょうけど、全キャラクターの「身上調査書」を見せてほしいですよね。まあ、全部明かして想像の余地を失くしちゃったら無粋だっていうのも分かりますが……、ファンとしてはやっぱり、荒木先生が生み出したキャラ達の設定を事細かに知りたいという好奇心が疼きます。
いつの日にか、そーゆーのをいっぱい収録した設定資料集的なファンブックでも発売されたら嬉しいなあ。でも、多分ないだろうなあ。それが実現したらしたで、今度はアイディアノートや打ち合わせノート、デザイン画なども見せてほしいって、欲望にキリがなくなりそうだし(笑)。


F承太郎が自殺!?
91ページに次のような一文がありました。「承太郎は自分でも制御できない暴力性を抑えるために、自ら牢屋に入って自殺しようとしているのですが、何か得体の知れない力がそれをとどめています。」――と。
どうやらこの一文で、承太郎はガチで自殺しようとしていたんだと、承太郎ファン達がざわついていた模様。でもこれ、早まって文面通りに受け取ってはいけません。私が思うに、これは荒木先生の言う第3部の「異様な始まり方」の説明として、あえて第三者視点で無機質に状況を記した表現なんじゃないかと。「承太郎はスタンドを自分でコントロールできず、他人を傷付けないために自ら牢屋に入った」「拳銃を自分に向けて発砲するが、彼自身のスタンドが弾丸を止め、承太郎を守ってくれている」――。この周知の事実を、異様さ・不気味さ優先に客観的に説明すれば、先の一文になるワケです。
つまり、実際のところ、承太郎は自殺しようとしていたのではない。むしろ「悪霊」の正体を突き止めようとしていたし、あの拳銃自殺未遂も「悪霊」の存在を他人に思い知らせるため。「悪霊」が必ず弾丸を止めてくれると信じられたからこそ、ホリィさんの目の前であんな無茶が出来た。そう思います。少なくとも、あの時点で承太郎が自殺なんてするとは、到底考えられません。
もっとも、もしあのままスタンドが暴走し続け、凶暴性がさらに手に負えないものになってしまったとしたら、大切な人達を守るために、承太郎も最後には自殺を決意・実行してもおかしくはないかな?




(2015年4月27日)




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