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「ジョジョリオン」は面白い?つまらない?





2011年5月、月刊誌「ウルトラジャンプ」にて連載がスタートした「ジョジョの奇妙な冒険」第8部「ジョジョリオン」。これを書いている今は2018年8月。すでに7年もの歳月が経過しているにも関わらず、「ジョジョリオン」は未だ完結する気配もありません。
それ自体は個人的には全然問題ないんですが、特にここ最近、あちらこちらで「ジョジョリオン」への否定的意見を目にする事が多くなりました。かいつまんで言えば、「つまらない」「ワケ分からない」「長すぎ」といった内容です。正直、楽しく読んでる身とすれば腹立たしいものの、そういう意見があるのも事実。これはこれで、「ジョジョリオン」を改めて見つめ直す良い機会だなと思いました。
間もなく「荒木飛呂彦原画展 JOJO - 冒険の波紋 -」が開催され、秋には5部アニメの放送も控えているこのタイミング。現時点で一度、「ジョジョリオン」を評価してみようじゃありませんか!




評価の尺度には、荒木先生の著書「荒木飛呂彦の漫画術」にも書かれている、漫画の「基本四大構造」を用いましょう。「キャラクター」「ストーリー」「世界観」「テーマ」、漫画において重要なこれら4つの要素。それに加えて、「ジョジョ」を語る上で避けては通れない「バトル」。この5つの尺度で語っていきたいと思います。
だいぶ長くなっちゃうんで申し訳ないんですが、これも私の「ジョジョリオン」への熱量・愛情の表れと思って読んでやってください。



< キャラクター >

★主人公 : 東方定助
主人公は、2人の人物(「吉良吉影」と「空条仗世文」)の融合体であり、自分の記憶がまったく無い定助。そのためか、純朴でトボケた少年の面と、凛々しく荒っぽいオトナの面の二面性を持っています。彼のスタンド能力や、「遭難者」をイメージしたというキャラデザインからも読み取れますが、確固たる「自分」が無く、フワフワしてて今ひとつ掴みどころの無いキャラ。そういう点では、現時点で「キャラが弱い」「共感しにくい」といった意見があるのも致し方ないかもしれません。
ただ、彼の動機は単純明快「自分を知りたい」。そして、自分の母親であり恩人である「ホリーさんを救いたい」。アイデンティティを完全に喪失し、孤独を抱えながらも……、いつだって真っ直ぐな定助は、やっぱり主人公に相応しいと私は思います。「謎」に満ち満ちたこの物語を紡ぎ出せるのは、「謎」そのものとも言える彼だけなのです。

★ヒロイン : 広瀬康穂
現役女子大生の康穂は、主人公と相思相愛の「戦うヒロイン」。これって実は、「ジョジョ」では初めてのポジション。「ジョジョリオン」という作品自体、定助が彼女と出逢う事で始まるボーイ・ミーツ・ガールです。もっとも、定助も康穂もまだお互いに「好き」とは言っておらず、そもそもガチの恋愛感情にまで発展しているのか、その気持ちを自覚しているのかどうかも定かじゃない。やる時はやる強い性格だけど、弱さや儚さ、可憐さも併せ持つ乙女な康穂がまた可愛いんですよね。
両親との関係でずっと孤独を抱えていた彼女は、最初のうちは、定助の境遇を自分と重ねて手助けしていた部分が大きいようでした。しかし、過去の出来事を思い出し、他ならぬ自分自身の意志のもとに戦う決意を固めます。結果的に、定助と同じ目的を共有するたった1人のパートナーとなったワケです。これから2人の気持ちや関係がどう変化していくのかも要注目。

★頼れる仲間 : 豆銑礼
東方憲助さん専属の果樹栽培師にして植物鑑定人の礼さん。感情や感傷に流されず、ひたすら己の仕事・役割を全うするプロフェッショナルな姿勢がカッコイイ。ただ、それを平気で他人にまで求めてくるのがちと厄介(笑)。もともと人間嫌いで気難しい性格のため、冷酷非情な程にドライすぎる時もありますが……、しかし、信頼に値する者には協力を惜しまない熱いハートが根底に宿っています。
初登場が16巻って事で、つい最近出て来たばかりのキャラなんだけど、その存在感は強烈。スキーリフトに住み、唐突にロマノフを作って振る舞う姿もインパクト絶大。個人的にかなり好きなキャラですね。「自分」が何者か知りたがっている定助や康穂とは対照的に、揺るぎない「自分」を持ち、貫いている男と言えるでしょう。

★東方家の人々
個性が強いというか、とにかくクセがスゴい東方家。先祖から受け継ぐ「フルーツ屋」という仕事に誇りを持ち、「伝統」を重んじる憲助さん。そんな父の考え方を「弱い」と一蹴し、激しい上昇志向で「革新」を目指す常敏。お馬鹿だけど、芯が強くて美しい鳩ねーちゃん。どこまでも自分本位で欲望に素直な、キモいのにどこか憎めない常秀。ゆるふわキュートでマスコット的存在の大弥ちゃん。子どもながらに自分の宿命に抗う、女装エロガキのつるぎちゃん。そして、愛する家族を守るためなら、躊躇なく法さえ犯す花都さん。
私が「ジョジョリオン」で特に魅力を感じているのが、この東方家の在り方です。1つの「町」を描いた4部よりさらにミクロな、1つの「家」「家族」を描いているのが「ジョジョリオン」なのです。由緒ある血筋、それゆえの「繁栄」と「呪い」。流れゆく時代と変わりゆく世界、それらに相対する各々の思想・価値観。同じ家に生まれ、同じ問題を抱えているからこそ、それぞれの違いもより鮮明に浮かび上がってきます。お互いに大切に想い合っていても、いつも楽しく仲良くとは行かず、時にはすれ違いや争いも生まれる。自分の「家」や「血」の話だから、もはやごまかしようも無ければ逃げ場も無く、否応なしに直視しなければならない。東方家の面々のやり取り・関わり合いには、人間存在にまで深く切り込んだ……と言えば大袈裟かもしれませんが、そういうリアルな人間関係・人間模様の面白さがあると思います。

★未知なる種族「岩人間」
「ジョジョリオン」における敵の多くは、人ならざる者「岩人間」です。いつ、どこで、どのようにしてこの世に生まれた種族なのかは、まだ明らかにはなっていません。しかし、彼らは人間社会のどこかに潜み、その領域を気付かぬうちに侵食しているのです。得体の知れない、不気味な存在。何を考え、何をしているのか分からない「隣人」の象徴であり、人間の暗部、欲望や罪の根源、そんなものの象徴とも言えるのかもしれません。
彼らは、ビジュアルも含めて、非常にバラエティー豊かな連中です。個人的には、ダモカンこと田最環や、プアー・トムなんかが特に好きですね。ダモカンは、プライドが高くて異様に執念深いところがゾッとしました。エグい拷問も楽しんでやってるし。プアー・トムは、赤ん坊のようで老人のようでもある、見た目のちぐはぐさが好み。言動もユーモラスでした。ダモカンチームは死んだ後も回想でちょくちょく登場し、チームワークの良さも描かれており、単なる使い捨ての敵キャラではないってのが伝わります。
……否定的意見の中には、「魅力的な敵がいない」というものも見受けられました。まぁ、確かに、外見・内面ともにカリスマ的魅力のある敵がいるかと問われれば、そういう意味では「まだいない」と答えるでしょう。基本、怖さや気味悪さの方が先に立ってますからね。「カネのため」という俗っぽい目的も、敵としてはスケールが小さい。その辺は、「不死産業」を狙っているらしい新勢力に期待が高まるところ。種の争いにまで発展しそうな予感もします。



< ストーリー >

★「謎」が溢れる町
初めは定助の「自分探し」、今は「新ロカカカ」争奪戦。これがストーリーの柱となっています。読めば分かる通り、「ジョジョリオン」はとにかく「謎」が多い。主人公の素性すら謎でしたし、ようやく正体が判明しても、今度はそいつ(空条仗世文)の出自も謎。さらには、何者かの「歯型」、定助の脳裏に過ぎった「男」、「壁の目」の「等価交換」のパワー、石化の「病」、漂着した赤ん坊、「岩人間」、「ロカカカ」の果実……、ざっくりと挙げただけでもこれほどの「謎」に満ち溢れています。
なにぶん、記憶の無い主人公を通して見る物語ですので、「分からない事」は「分からないまま」に受け取る以外にありません。定助と同じように「謎」に翻弄され、それ自体を楽しむのが良いのではないかと思います。ついつい「答え」を急いでしまいがちですが、まっさらな頭で予想・考察・想像・妄想にじっくり耽るのもまた一興なのです。そんな推理小説のようなミステリ風サスペンスが、「ジョジョリオン」ならではの持ち味と言えるでしょう。

★呪われた一族
身寄りの無い定助が引き取られた東方家にも、大きな「謎」が蠢いていました。
第一に、「どんな家族なのか?」「どんな人間なのか?」という「謎」。4部が「隣に住む人がどんな人か分からない」というサスペンスだとしたら、「ジョジョリオン」はより深化し、「一緒に住む人がどんな人か分からない」というサスペンス。家族とは、人が産まれて最初に出会う「他人」であり、最初に属する「社会」とも言えます。家族との関わり合いを通じ、人は徐々に「自分」になっていくのです。定助にとっての東方家も、そんな存在になってきている模様。自分の血統もバックボーンも知らない定助だからこそ意味があるし、ずっと1つの血統の物語を描き続けてきた荒木先生が今描くからこそ意味がある。
第二に、一族に伝わる「石化病」という「謎」。これもまた、ストーリーを左右するほどの超重大な「謎」です。今は、この「病」を治す力を持つ「新ロカカカ」がキー・アイテムとなって、激戦が繰り広げられています。ただ、「新ロカカカ」をゲットしたところで、根本的解決にはならないのがミソ。この「石化病」と東方家のルーツに迫る展開が始まり、最後は「石化病」を根絶してこそ、一族の「呪い」が初めて解かれる事になるのだと思います。

★「ミステリ風」と「ライブ感」
さっき「推理小説のようなミステリ風サスペンス」と述べましたが……、荒木先生が最初から最後までキッチリとプロットを練った上で描いているのかというと、そうではありません。これまでの部と同様、基本的には「ライブ感」重視です。そのため、これまでの部と同様、やっぱり不自然な展開や過去の設定との矛盾点もちょいちょい出て来ちゃっています。定助の正体にしても、自力で解き明かすのではなく、正体を知ってる人が突然現れて教えてくれるって形になっちゃってたし。その教えてもらった過去とのつじつまも微妙に合ってなかったし。
まぁ、強引にこじつけて脳内補完する事も出来るとは言え、「謎」が美しく解かれてゆく期待を煽る物語構成だっただけに、これはけっこうな痛手。「ミステリ風」のストーリーと、「ライブ感」重視の作劇法は、そもそも非常に相性が悪いワケです。それでも私みたいなヤツは、吉良と仗世文の過去を読んで大興奮・大感動し、「矛盾なんて気にせず、荒木先生が描きたいものを描いてくれ!」なんて思えたんですけど、当然、みんながみんなそう思えるはずも無く。「どうせ回収されない設定でしょ」「謎にもう興味が湧かない」ってな具合に、幾人もの読者からストーリーを追う気力を萎えさせ、不満を噴出させてしまう結果となったはず。
しかし、ストーリーに関しては本当に、完結するまでは何とも言えない部分が大きい。見事な巻き返しで魅せる作品もあれば、最終回でズッコケる作品もありますからね。

★大きな「流れ」を描く
週刊誌から月刊誌に、少年誌から青年誌に、荒木先生が活躍の場を移したのには、(人気が無くて左遷されたとかじゃなく)ちゃんとした理由があります。そのうちの1つが、「毎週19ページ」という制約から解き放たれるため。1週1週で「起承転結」を作り、せわしなく目まぐるしく「山場」を見せなければならないので、どうしても小さくしたりカットしたりせざるを得ない絵も出て来ます。そこから解放され、「もっと大きな起承転結の流れを描きたい」「もっと大きく絵を描きたい」という願いを実現できた場所が「ウルトラジャンプ」でした。
だからこれは「ジョジョリオン」だけじゃなく、7部「STEEL BALL RUN」(以下「SBR」)にも共通する特徴になるんですが……、絵に対するこだわりがハンパない。ド迫力で臨場感溢れる美麗な絵がいっぱいで、「漫画」であると同時に「バンド・デシネ」にも近付いている感じがします。そして、それゆえにストーリーのテンポはゆったりめ。「SBR」はレースという設定上、ゴール地点も明らかで、自ずとスピード感も出てました。しかし、サスペンス中心の「ジョジョリオン」は、それがかえって「テンポが悪い」「一向に終わりが見えない」「ダラダラしてる」「展開が単調」という散々な悪印象を生んでしまってる気がします。決して無駄で余計な描写ではないんだけど、早く結末を知りたい人にはまどろっこしく見えるのでしょう。
1コマ1コマの絵を味わい楽しむ、みたいな余裕も持ち合わせていないと、「ジョジョリオン」は少々厳しいのかもしれません。そういうのを読者みんなに要求するのも無理があるしなぁ。どうしたって、好き嫌い・賛否がハッキリクッキリ分かれちゃう作品なんだろうなぁ。



< 世界観 >

★「現代日本」が舞台
4部と「ジョジョリオン」、同じ杜王町を舞台にした部であっても、両者は明確に違います。4部の杜王町は、荒木先生のノスタルジーや憧憬を詰め込んだファンタジーと言えるでしょう。その街並みは、日本というよりはアメリカの片田舎。1999年という時代設定も、連載当時から見れば近未来。町の人々も、良くも悪くも活気があり、なんか人生楽しんでそう。そんな一見、平和でのどかな町なのですが……、その背後には「ノストラダムスの大予言」に代表されるような、20世紀末独特の漠然とした不安感・終末感もまた漂っていました。つまり、読者にとっては「非日常」「非現実」な町。
一方、「ジョジョリオン」の杜王町は、非常にリアルに描写されています。何しろ、時代設定が2011年の夏~秋頃。我々読者と同様、あの東日本大震災を経験し、地震や津波の被害で町は大きく傷付いているのです。街並みも、(写真を背景に取り込んだりしてるくらいなので)まさしく今の日本そのもの。町の人々にしても、普通に親切な人もいれば、「カツアゲロード」や「杜王連合」の連中みたいなロクでなしもいますけど……、基本的には他人に無関心・不干渉で、無機質さすら感じさせます。読者にとっての「日常」「現実」が下地にあった上で、「壁の目」や「岩人間」というファンタジーに侵食されている形になっているワケです。
このように、「ジョジョ」で初めて「現代日本」を舞台にした部が「ジョジョリオン」なのです。3部の始まりも当時の「現代日本」ではありますが、あれはあくまで「旅のスタート地点」に過ぎませんからね。……まぁ、荒木先生自身もおっしゃっていますが、「ジョジョリオン」の杜王町は「守りたい」とはあまり思えない町になってます(笑)。4部の杜王町とは対極に位置しているのに、それを期待しちゃうと、めっちゃ抵抗があるかもしれません。そこに暮らすキャラクターみんながそれぞれに(ある意味、不自然なほどに)孤独なのも、時代を反映しているって事なのでしょう。

★民話・怪談の空気感
「現代日本民話」とでも言うような、どこか懐かしくも、不吉さ・不穏さを孕んだおどろおどろしいムード。前々から荒木先生に「和」を描いてほしいと思っていた私にとっては、「ジョジョリオン」のそういった空気感だけで楽しめちゃいます。(その意味では、「岸辺露伴は動かない エピソード#02 六壁坂」は「ジョジョリオン」の走りとも言えるでしょう。)
失われた記憶、先祖から受け継ぐ「生業」と「呪い」、女装の習わし、「壁の目」の存在と不思議な力、ジョニィ・ジョースターの伝説、『ミラグロマン』、謎のフルーツ……。連綿と今へと繋がるいくつもの「過去」「昔」「因縁」が、「ジョジョリオン」では非常に重要視されています。「岩人間」という人ならざる者も、言ってしまえば「妖怪」。大震災によって荒廃した街並みも相まって、(こういう言い方は不謹慎かもしれませんけど)現代の「怪談」「都市伝説」が語られているかのようでもあるのです。

★意図した「ユルさ」
「ジョジョリオン」では「ユルさ」を意識しているという旨の発言を、荒木先生はされていました。ずっとシリアスで緊張感のあるシーンや同じ密度の絵ばかりでは読者も疲れちゃうし、どこに注目していいのかも分からなくなっちゃいますから。要は、今まで以上に緩急をつけようとしているワケです。
それは例えば、定助のトボケた性格とリアクションなんかにも見る事が出来ます。東方家のみんながじゃれ合う日常風景とか、敵に追われてる中でロマノフ作り出したりする礼さんとか、定助と康穂のイチャラブ青春パートなんかもそうでしょう。
また……、絵的にも、あまり描き込まずに「白さ」を残しているコマが散見されます。ホワイトのトーンをコマ全体に貼ったり、(「SBR」の10巻から導入してますが)筆ペンっぽい線でピントが合ってないボヤけたシルエットを描いたり。これらも全て、より重要で見てもらいたいコマや人物・状況に、読者の視線を誘導し、意識を集中させるためのテクニックなのです。これは断じて「手抜き」ではなく、むしろ「凝った演出」なのだと言っておきたいところ。



< テーマ >

★「福音」の物語
「ジョジョリオン」とは言うなれば……、記憶を失い、「自分」が無い、そんな主人公がゼロから「自分」を探し求め、築き上げていく物語です。そもそも「ジョジョリオン」は、東日本大震災からわずか2ヶ月後にスタートした作品。あの震災でいろんなものを失ってしまった人達への、あの日から「生きる事」の根底が揺らいでしまったこの国への、力強いメッセージが込められていると私は思っています。
定助が2人の人物の融合体である事実が後に明かされますが、未だ定助の記憶は蘇りません。元の2人に戻る事も無いでしょう。二度とやり直せない事も、永遠に取り戻せないものも、たくさんあります。それでも、生きてさえいけば、別の「大切な何か」を得る事だって出来る。新しい出逢いによって、今よりもっと良い方向へ人生を変えていく事だって出来る。そんな積み重ねが、新しい「自分」を形作っていくはずです。
1人の女の子と出逢い、東方家という家族を得、守るべき母を見付け、信頼できる仲間と共に戦い……、定助の人生は、まだまだ苦しい事が続きますが、でも最初の日より明らかに豊かになっています。孤独に涙していた定助は、もう過去の定助。「ジョジョリオン」という作品はきっと、定助達の姿を通じて、我々1人1人の心に「勇気」と「祝福」を齎してくれるでしょう。

★長期間連載の意義
「ストーリー」の項目でも触れた通り、よく目にする否定的意見に、「テンポが悪い」「一向に終わりが見えない」っていうのがあります。実際、そういう面も否めませんが、長く続いている事には重大な意義・意味もあります。いや……、というより、長く続けるべきなんです。それは、先の大震災の話に関連してきます。
連載スタート時は、作中の時間はほんのちょっとだけ未来でした。そして、現実時間は作中時間を追い越し、今じゃ随分と年月が経っちゃいました。でも、「ジョジョリオン」の中では今も2011年のままなのです。震災直後の時間のままなのです。あの日がどんなに遠い過去になっても、「ジョジョリオン」を開けば、知らず知らず読者は2011年に戻っているんです。それが大事。もちろん、連載が終わっても作品は残り続けるけど、どうしても鮮度は失われてしまう。やっぱりリアルタイムで長期間連載して話題になるって事自体に価値があるワケです。あの日の記憶を風化させないために。復興への希望を失わないために。
だったらダラダラ続けていいのかという問題も出て来るでしょうが、ダラダラなのかどうかは結局、その人の受け取り方次第です。何より、本当に進んでいるのか、どこに向かっているのか、いつになったら終わりなのか……、それすら見えにくくなっているもどかしさは、災害復興も「ジョジョリオン」も同じ。それでも、だからこそ、結果だけを急いではいけません。

★「変化」する作者
荒木先生は今年で御年58歳。とてもそうは思えぬ若々しい外見と瑞々しい感性を持っているため、事あるごとに「不老不死」とか「吸血鬼」とか言われてきました(笑)。ただ、生きとし生ける者は全て、年齢を重ねれば良かれ悪しかれ「変化」していくもんです。荒木先生とてそれは変わらない。絵柄も作風も考え方も、少しずつ変化しています。(無論、ずっと変わらずに一貫している部分もありますが。)
そして、これが重要なんですが、荒木先生はその変化を恐れもしなければ後悔もしません。以前のインタビューでも、「成長していく若い読者に、成長しない物語は必要ない」「尊敬するクリント・イーストウッドは役でも年齢を隠さない」と発言されており、成長も老いもひっくるめて自分の「変化」を受け入れている事が窺えます。むしろ、同じ場所に留まらず、積極的に「変化」しようとしている様子。この世に産まれ、成長し、老い、死んでいくのが人間なら……、そして、そんな人間が描くのなら……、「人間讃歌」である「ジョジョ」もそうなって然るべき。事実、「ジョジョ」はそうやって絶えず変わり続けてきました。
「ジョジョリオン」は青年誌で連載スタートした初のシリーズであるため、表現も少年漫画より「オトナ」になっています。露骨で下品なものではなく、あくまでサスペンスやキャラクターの味付けとしてですが、今まであまり描けなかった「エロス」に挑戦。「生」から決して切り離せない「性」に踏み込んでいます。また、作品の雰囲気も、キラキラギラギラした激しい熱さは鳴りを潜め、そこに感じるのはひんやりと落ち着いた風情・情緒。絵的に見てみても、喜怒哀楽を体全体・顔全体で描くというよりは、口の端の僅かな点1つで描き出そうとしています。大袈裟であからさまな心理表現ではなく、気付くか気付かないかくらいの感情の機微に主眼を置いている印象。まさに、年齢を経た「今」の荒木先生だからこそ滲み出てくるシブさです。味わい深い反面、キャッチーさは薄れてるかも。

なので、過去の部と同じものを求めても、荒木先生はもうそこにはいません。「前の部ではこうだったのに……」と言っている人達は、結局、自分の好きな部と似たものが読みたいんでしょう。でもそれは、荒木先生が絶対に描かないものでもあります。だって、前の部で描けなかった事を新しい部で描いてるんだから。
人の好き嫌いに立ち入るつもりはありませんが、もし過去と同じ面白さが見えないだけで「つまらないかも」と思っている人がいるのなら、過去とは違う面白さに目を向けてみてほしいなぁと願います。その上でダメだってんなら、それはもうしょうがない。合う・合わないはありますもんね。



< バトル >

★町の中での死闘
同じ町を舞台にした4部との決定的な違いが、敵を殺しまくってる点です。4部は基本、敵をブチのめして終わり。命までは奪いません。ラスボスの吉良吉影でさえ、事故で命を落とすという結末でした。それとは真逆に、「ジョジョリオン」ではお互いにガチで殺しに掛かっています。容赦の無いハードさは、むしろ5部に近い。どこにでもありそうな町のあちらこちらで繰り広げられる死闘、その奇妙なアンバランスさは「ジョジョリオン」の個性の1つと言えます。
それを可能にしているのが、何よりも「岩人間」の存在でしょう。根本的に「人間」とは異なり、言葉は通じても理解・共存は出来そうもない連中。しかも、岩石化する体質ゆえに、どこにでも潜め、殺しても死体さえ残らない。作劇上、実に都合の良い生物です(笑)。そんな生物を設定してまで町で死闘を描くのは、恐らく、この物語が「呪い」を解く物語だからだと思います。主人公達が最終的に「福音」を得るためには、「呪い」や「罪」を乗り超え、キッチリ打ち砕く必要があります。「岩人間」は、その「呪い」や「罪」を体現した敵って事です。(夜露、愛唱、双児、ダモカン、ドロミテ、アーバン・ゲリラ、プアー・トムは、「7つの大罪」をモチーフにしているっぽいフシがあるし。)

★濃厚な描写と淡白なオチ
「岩人間」達のスタンド能力にしても、とにかく「殺し」に特化しているヤバい能力が目白押し。そこからも、ハナっから他者との共生など求めてすらいないのが伝わってきます。そういう危険なヤツらを相手に戦う定助達。
そのバトルの特徴としては……、まず、能力の恐ろしさの描写がピカイチですね。じっくりねっとりリアリティたっぷりに、えげつない能力のディテールを絵にしています。反面、そこを描き過ぎるあまり、(「ストーリー」の項目でも触れた)「テンポが悪い」「ダラダラしてる」という悪評を買ってしまっているのかも。ただ、それを置いといても、駆け引きやオチは大味なものが多いかな。「能力が曖昧」「どこからどこまで可能なのかが分からない」なんて批判も見受けますし、別に否定もしません。でも、それ自体は今に始まった事じゃないので、ここではいちいちツッコまない。それよりも、ビックリして笑っちゃうようなブッ飛んだ発想や、スカッとする決着がもっとあれば良いなぁとは思います。そこは正直、物足りない。ページの大部分を占めるバトルですから、必然、求めるものも多く厳しくなってしまいます。
トータルで評価して、今のところ特にお気に入りのバトルはプアー・トム戦。それぞれの立場や思惑が入り乱れる三つ巴の戦いに燃えました。エイ・フェックス兄弟戦も、シンプルでスピード感もあって面白かったです。「岩人間」じゃないけど、大弥ちゃん戦常敏とのクワガタ戦も小手先でチマチマやってる感じが好き。何だかんだで、敵と面と向かってのバトルは素直に盛り上がります。

★「戦う動機」の希薄化
キャラクター各々の「生きる動機」は明確なんですが、それがイコール「戦う動機」にはなっていないという問題があります。自分の「生きる動機」の妨げになる者がいるから、そいつを「敵」と見なして戦う……という1つズレた図式。つまり、「敵が襲って来るから」戦っているって状態なワケですね。人生に対しては攻め攻めのイケイケなのに、バトルに対しては受け身。せっかく死闘を演じているのに、「戦う動機」が薄い現状はもったいなくも感じます。「キャラが何をしたいのか分からない」といった類の否定的意見は、その辺に原因があるんじゃないかな。
ただ、それもそのはず。特定の「誰か」をやっつければハッピー・エンド!……っていう単純明快な話ではないからです。6部あたりからそういう兆候は見られましたが、ついに「ジョジョリオン」で極まった感。主人公達が追い求めているものは「自分という存在」であり、「自分を誇れる道」であり、自分自身の心や人生を縛り付ける「呪い」を打ち破る事なんです。「ラスボスがまだ出て来ない」なんて不満を漏らす人も多くなってきているようですが、ラスボスらしき人物が登場したところで、たぶん物語の構図そのものは変わらないでしょう。ラスボスは単に、「目に見える敵」「分かりやすい目標」ってだけ。本当の「敵」は、あくまで自分自身の心と人生なんだろうと思います。
もっとも、ラスボスの思想や行動如何によっては、「生きる動機」と「戦う動機」がピッタリと噛み合うようになる可能性もあります。そうなれば、バトル自体ももっと白熱する事受け合い。そんな理想的なラスボスが満を持して登場してくれる事を、今しばらく心待ちにしていましょう。




―― もっと細かい事を語ればキリが無くなりますが、ざっとこんな感じです。
ただ、私は荒木先生のインタビューや対談などは昔からほとんど押さえているし、荒木先生を全面的に信頼しているので、こういう評価が出来るんでしょう。でも、これもまた1ファンの意見なのだと思っておいてください。

一応言っとくと、このコラムを書いた目的は、「ジョジョリオン」に否定的な方々と「戦うため」でも「説得するため」でもありません。ちゃんとした意見なら否定的意見だって尊重しますし、単なる罵詈雑言を吐き散らすだけのアンチなら、そもそも何を言っても無駄ですし。また、「ジョジョリオン」未読の方々に「読むキッカケを作るため」でもありません。読みたくなければ読まなきゃいいし、読みたくなったら読んで感想教えてね!って思ってるだけなので。
目的は、まず1つに、自分のためでした。自分は今、「ジョジョリオン」をどう読んでいるのか?どういうところに魅力を感じ、楽しんでいるのか?それを具体的に、文章という形で留めておきたかった。ずっとモヤモヤしてたんで、自分の想いを表明してスッキリしたかったんです。もう1つは、「ジョジョリオン」は読んでるんだけど、どう評価したらいいのか分からんなあ……という人のためでした。我ながら、ずいぶんニッチな層がターゲット。でも、ちょっとでもそういう人の評価の助けになって、「ジョジョリオン」への興味・好意を持つ人が1人でも増えてくれると嬉しいです。


「ジョジョリオン」は面白いのか?つまらないのか?その「答え」は、「ジョジョリオン」を読んだあなたの心の中にあります。……私の「答え」?もちろん面白いよッ!




(2018年8月12日)




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